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「オルナンの埋葬」クールベ 1849-15850 オルセー美術館

全体像

これはオルセー美術館が所蔵する、「オルナンの埋葬」です。描いたクールベはフランス19世紀の半ばに活躍したリアリスムの巨匠です。この作品は、フランス2月革命の翌年1849年から1850年にかけてオルナンの実家の屋根裏で制作されました。舞台となったオルナンは、スイス国境に近い、フランス北東部のフランシュ・コンテ地方の平和で美しい町です。

この絵を実際にオルセー美術館でごらんになった方は、まずこの絵の大きさに圧倒されると思います。幅は668CM、高さは315Cっもあり登場する46人はほぼ等身大で描かれています。この絵のサイズ668x315は一見特に意味がないようですが、実際には靴の長さを約32センチと想定した場合、この絵のサイズは幅20足分、高さ10足分となります。オルセー美術館に行かれた際に、ぜひ試してください。

このような超大作にもかかわらず、またこの作品は先に見ていただきました「オルナンの昼食後」の官展での大成功でその後は無審査で出展できるはずであったにもかかわらず、1850年の官展で落選し、さらに1855年の万国博覧会での展示会でも出展を拒まれ、結局彼自身が費用を出して立てた独自のパビヨン「リアリズム」で発表されたいきさつがあります。

場面設定と登場人物

まず絵の中身、いったい誰が埋葬されたのか、そしてクールベが何を主張しようとしたのかという本質的な問題に入る前に場面設定と登場人物の説明をしましょう。この大作は制作の前年、つまり1848年の9月に、オルナンの町の外で、町を横断するルー川の左岸の丘に作られた新墓地が舞台になっています。後に亡命先のスイスで亡くなったクールベはこの新墓地に埋葬されました。
そして背景にはオルナン特有の石灰岩の崖が見えます。実際に、オルナンの墓地からこれとほ同じ崖がルー川右岸に見えます。この作品の登場人物は通常左から教会と葬儀の関係者、中央は男達、右が女達と三つのグループに分けて論ずるのが普通となっています。また昔はカトリック教会ではミサのときに男性と女性が別れて座るのが常でしたし、葬式のときも少し別れて歩くのが普通でした。

ですから三つのグループからなるこの絵は伝統にのっとっていると言えるのですが、私は登場人物を誰かの死を悲しむものとそうでない者の2グループに分けるのが妥当であろうと考えています。まず右側のなき悲しむ女たちや、クールベの友人達の計26人からなるグループと、左の教会関係者と町の有力者からなる20人のグループに分けることができます。左右足すと計46名です。

右のグループ
右グループ


まず右側の18人の泣く女性に注目してください。後ろに半分消えてしまった女性と右端手前の少女も含めて18人です。犬の上のハンカチを持った3人の若い女性がクールベの妹で年上から言って長女のゾエ、次女のゼリ、そして末娘のジュイエットです。ゼリの顔はハンカチで隠されえて見えませんので、暮れにナンシーの美術館でそのゼリの肖像画を撮影してきました。そして妹達の後ろの女性が母親のシルビー・ウドです。そして右端の少女はクールベの従姉妹にあたります。これで20人になりました。
そして中央、墓穴の手前で聖書を持っている男性と、すぐその後ろの男性は1792年ころ、つまり50年も前の第一共和制の時代の服装をしています。興味深い点はそのかっての共和主義者の一人が聖書を持って教会の神父さんと墓穴を挟んで対峙している点です。この点については後で解説します。そして二人の共和主義者の左に立つ口ひげを生やした男性は、弁護士でクールベの友人。そしてそのすぐ左にはハンカチで顔を覆った男性の姿がかろうじて認められます。画面中央の男性はお金持ちの水車小屋の主人。その左で顔にハンカチをあてた男性は元憲兵で質屋になった人。以上で右の26人のグループになります。私はこのグループを誰かの死を悲しむ者たちのグループと考えています。

左グループ

左グループ

 次に左のグループです。このグループは教会関係者とも呼ぶことができます。まず墓穴の前でしゃがみこんでいるのが墓掘り人のアントワンヌ・ジョゼフ・カサール。大きな穴を掘って熱くなったので、白い帽子を脱いで地面においています。彼の頭の上のシルクハットの男性が町の簡易裁判所の判事さん。そのすぐ右の帽子をかぶっていない男性がオルナンの町長のプロスパー・テストゥ。町長の上の帽子をかぶっていない人はクールベの友人で独身の年金生活者。さらにその右のシルクハットの男はお金持ちのブルジョワです。

  それでは教会関係者の説明を行ないます。墓穴の前に立ち祈祷書を読む神父はボネ神父です。クールベはほぼ同時期にボネ神父の肖像画を描いています。神父の右の赤い服を着た男性二人は、民会人だですが教会の祭儀の際の世話役の方です。左は裕福なぶどう園経営者で、右が靴屋さんです。神父の左で十字架を持っているのはぶどう園経営者。その左後ろにいる黒服の男性は音楽家。さらにその右が靴屋さんです。神父のすぐ後ろの少年は祝福を与えるための水の入った金属の壷をもっています。この少年のすぐ後ろを見てください。白い布で覆われた棺が見えます。棺は黒い帽子をかぶった4人の男性が白いシーツのようなもので肩から吊り下げています。前面の男性は先ほどから何度も出てきましたイオリン引きのプロマイエットがモデルで、その右が地元の地主さんと考えられています。

ここで大変興味深いことはこの4人は棺から意図的に目をそらしている点です。この点についても後で考察してみましょう。画面の一番左を見てください。この男性は1848年になくなったクールベのおじいさんがモデルだと言われています。

 次に人物ではありませんが、作品の解釈上で大切な点が一つあります。墓穴の右横を注意して見てください。人の骨が見えます。墓地だから穴を掘ったら昔の骨が出てきたなどと思わないでください。先ほど説明したとおり、この墓地は前年オープンしたばかりの新墓地でした。そこに人骨がころがっているのには理由があります。

墓地に転がる人骨

15世紀末にボスが描いた十字架像にも十字架のそばに人骨がころがっています。これはキリストが磔になったゴルゴタの丘にアダムとエバの骨が捨てられたという伝説があるためです。つまりキリストはアダムとエバから始まった人類すべての罪をあがなうために十字架上で死んでいったという贖罪を表しています。ということはここに埋葬される人物は、キリストの贖罪にもまさるとも劣らない素晴らしいことをして殉教した人物ではないかと想像できるのです。

6月暴動

 作品の解釈上必要な予備知識がもう一点あります。それは1848年の2月革命の4ヵ月後に起こったパリの6月暴動です。1848年の2月革命はブルジョワと数多くの労働者とりわけ失業者達によって実現しました。しかし、革命が成立し共和制が樹立されると、リベラルなブルジョワは直ちに労働者を権力から追い出しました。しかも共和制樹立直後に作られたアトリエ・ナショノーという115000人もの失業者救済のための仕事を与えるシステム、いわば現在の失業保険に相当するシステムは、たった4月後に廃止されてしまいました。そして若い失業者は強制的に軍隊に放り込まれ、その他のものは地方に強制的に帰らされることになりました。これに怒り狂った失業者と一般市民たちは6月23日からパリ市内いたるところでバリケードを築き軍隊と衝突を始めました。

そして26日にフォーブルグ・サント・ノレで最後のバリケードが陥落しました。その4日間続いた市街戦によって、軍隊には1600人の戦死者、市民側にはなんと4000人の戦死者を出し、それに戦闘直後に軍隊によって行なわれた1500名もの裁判なしの銃殺刑、25000人もの逮捕者に11000人の禁固刑とアルジェリアへの流刑というフランス革命史上最も血なまぐさい惨事となりました。この6月暴動のわずか1年後に制作が始まったのがこの「オルナンの埋葬」だったのです。

本当は教会ぬき埋葬

 前置きがずいぶん長くなりました。これからこの大作でクールベが何が言いたかったのかについて考察してみましょう。もう一度画面右側の泣き悲しむグループを見てください。

 この絵を理解する上で大半の美術史家が見落としている点があります。7月王政においては一般市民が集まること、つまり集会をもつことは法律で禁じられていました。その法律に抵触せぬように反王統派の人々と共和主義者は、誰か死ぬと、教会抜きの葬式をあげたり、パーティーと称して集会を持っていました。

でもその抜け穴のパーティーでさえ、2月革命の直前には当時のギゾ内閣は禁止してしまいました。画面中央では、第一共和制の老闘志が神父に対峙する形で聖書を読み上げています。つまり、この「オルナンの埋葬」の右のグループはかつての王政への抵抗の象徴であった「教会ぬき埋葬」を表しているのです。

 その反対に左のグループはどうでしょうか。誰一人として泣いているものはいません。しかも棺を担ぐ4人の男性はあえて棺から目をそらしているではありませんか。皆さん、もうお分かりになったと思います。
棺を担ぐ

できたばかりの第二共和制に裏切られ、生きる手段を奪われた貧しい労働者たちがバリケードを築き、数と装備で圧倒的に優勢な国民軍によって壊滅させられ惨殺されたのが6月暴動でした。いわば第二共和制は6月暴動の血による抑圧によって自ら墓穴を掘り、1851年、つまりこの絵が描かれて一年後の12月2日のルイ・ナポレオンによるクーデターと第二帝政を許す結果を導いたと言えます。ということは、この絵の墓穴に埋葬される、十字架とアダムの骨で象徴される尊い殉教者とは、6月暴動によって、生まれてまもなく死に瀕した第二共和制のことだったのでしょう。

右のグループ26人が暗示するもの

確かに第二共和制の樹立が7月王政下での抑圧からの解放と、自由を意味していたのなら、6月暴動は第二共和政の墓穴掘りという解釈は可能です。しかし私はここでもう一歩突っ込んだ仮説を提出します。先ほど私は通常登場人物を三つのグループに分ける方法を取らずに、右の悲しむものと、左の死者に平然とした態度をとるグループの二つに分けました。
それでは右の死者を悲しむグループの人数をもう一度思い出してください。泣く女性18人にもう8人の男女が加わって計26人でした。そして6月の暴動は22日から26日まで続いて、最後の26日に最も多くの戦死者と銃殺されたものが出ました。当時の良心的な共和主義者にとって1848年の6月26日と言う日は、自由を失った忘れがたい屈辱的で、絶望的な日だったのです。つまり26人の泣き悲しむ男女の泣き声は、6月26日に鎮圧された暴動で殺された数千人の労働者とパリ市民への鎮魂歌、レクイエムだったと想像できます。
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「女占い師」 ジョルジュ・ラ・ツール メトロポリタン美術館1632-1635年


作品


これは「光と闇の画家」として有名な17世紀の巨匠ジョルジュ・ラ・トゥ―ルの代表作「女占い師」です。ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵しています。ルーヴル所蔵のカラヴァッジョの「女占い師」とは別の作品ですから気を付けましょう。
カラヴァッジョ

現在まで、この作品は「風俗画」の範疇に入れられてきました。しかし、実際にはジョルジュ・ラ・トゥ―ルが生まれ育った現在のフランスのロレンヌ地方の、17世紀の複雑な宗教的社会的事情が隠されていたのです。

画面概説

お坊ちゃん風の品のよさそうな男性を、年取ったボヘミアンの女占い師と、3人の美しいボヘミアン女性が取り囲んでいます。恐らくこのお坊ちゃんは、年老いた占い師に「あなたは二枚目で、いい奥さんをもらって、出世する人だ」などといわれたのでしょう。
そして若い3人のボヘミア娘にも「ワー すごい。将来の殿様なんだ。ネー 殿様 遊んでって」などと言われてすっかり気分をよくして、今 左手で金貨を一枚占ない師にくれてやったところです。

占い師は、お坊ちゃんが持っていた金貨で占っているというのが通説ですが、占いに金貨を使うのは聞いたことがありません。もし使ったとしても、その金貨はそのまま「没収」されたことでしょう。この金貨にも意味がありますが、もう少し後で触れます。

ところが、これが鼻の下の長い、未経験な男性の致命的欠陥なのです。女性たちにもててると思ってたら、右から二人目のかわいい女性の手を見てください。この女性、横目でボンボンのほうを見ながら、ボンボンがクビから下げていた大きな金のメダルを今切り取ろうとしています。

一番左の美しい白のブラウスを着たボヘミア女性の右手に注目してください。ボンボンのズボンから財布を抜き取ろうとしています。それだけではありません。財布を抜き取る手のすぐ上を見てください。もう一つの手がみえます。でも手のひらを上にして、親指が観客の方に向いています。ということは、これは別の右手であって、白いブラウスの女性の右手ではないのです。これは、左から二人目の女性が差し出す右手であって、白いブラウスの女性が財布を抜き取ると同時に、隣の女性の右手にわたされるという集団すりの手口です。

この坊ちゃん、「こんなにもてるなら、この後この子たちと遊んで帰ろう。」などと思っていたことでしょう。
でもこの10秒後には、女の子たちは消え去り、アレと気がついたときには、財布も金のメダルもなくなっていたのです。以上がこの絵を異端者のにおいのする占い師などにかかわってはいけませんよ、という戒めのこめられた風俗画であるというのが一般の定説と通説でした。

絵の社会的背景と30年戦争

しかし、ここで疑問が一つ生じます。この絵が制作されたと思われる1635年ごろは、ラ・ツールは現在フランス領のロレンヌ地方のリュネビルの町に家族と一緒にくらしていました。一方 ボヘミアは現在の中部・西部を指します。ラ・ツールは何が面白くて風俗画を遠いボヘミアを舞台として描いたのでしょうか。

それをとく鍵が同時代のルーベンスの描いたルイ13世の肖像画です。ルーベンスの描いた13世像と、右の占い師の絵の坊ちゃんを比べてみてください。顔立ちが極めて似通っているだけでなく、モデルを30度の角度をつけてポーズをとらしている点も同じです。ルーベンスは1619年に自分作品を版画にしてフランス王国内で販売することを許されています。彼の描いたルイ13世像が版画に複製されてフランス王国内とラ・ツールの住んでいたロレンヌ地方に出回っていた可能性は大いにあります。
そして、その版画を見ながらラ・ツールはルイ13世の姿を「女占い師」の画面上に描いたのでしょう。ここでもう一つの疑問が生じます。ラ・ツールはなぜルイ13世を描く必要があったのか。
ルイ13世


これを理解するには当時のヨーロッパを揺さぶっていた30年戦争の経緯をたどってみる必要があります。30年戦争は熱烈なカトリックであったボヘミア王 フェルディナンド2世がプロテスタントへの弾圧を初め、それに反発した民衆がプラハ王宮を襲い、国王顧問官ら3人を王宮の窓から突き落としました。プロテスタントのボヘミア諸侯はこれをきっかけに団結してカトリック王に反旗をひるがえしました。これが30年戦争の始まりです。

そして第二段階ではデンマーク王クリスチャン4世がプロテスタントがわについて参戦しました。ところが、フランス王13世は王国の東をオーストリアのハプスブルグ家に、南西をスペインのハプスブルグ家に挟まれていました。これ以上のハプスブルグ家の台頭を恐れた結果、よりにもよってプロテスタント諸国のオランダ、英国、スウエーデン、デンマークと「対ハプスブルグ同盟」を結成して東西のハプスブルグと他のカトリック国をけん制しようとしました。

そして1635年以降、フランスは現在のドイツの神聖ローマ帝国に軍を送り、フランスの直接軍事介入が始まりました。ここで肝心な点は、当時ラ・ツールが住んでいたロレンヌ地方のリュネビルは、フランスの半占領下にあったとはいえ、理論的にはロレンヌ公シャルル4世の領土であって、ロレンヌ公爵領は1641年まで神聖ローマ帝国に属していました。言い換えれば、この絵を描いたジョルジュ・ラ・ツールはもともとロレンヌ公爵と神聖ローマ帝国の臣下であって、フランス王の臣下ではなかったのです。ジョルジュ・ラ・ツールがフランス王に仕えるようになったのは、この絵の制作後の1639年です。

これでお分かりになったと思いますが、ラ・ツールがこの絵の注文者の意向を受けて画面上で言いたかった本音は、「ボヘミアで始まったプロテスタント相手の戦争に、よりにもよってカトリックのルイ13世がプロテスタントに味方して我が神聖ローマ帝国に進軍してきた。フランス王は、この絵のように身包みはがれて痛い目にあってほしい。」これがラ・ツールの本音だったのです。
このように推論すると、青年が占い師に差し出して没収されるであろう金貨は、有名なルイ13世金貨であろうと想像できます。この金貨は現在一枚20万円ほどする高価な金貨です。


また,首からぶら下げた金の鎖をボヘミア女が切るしぐさですが、17世紀において、王様が臣下に金の鎖を与える習わしがありました。つまり、金の鎖を切るという仕草には、ルイ13世の「対ハプスブルグ同盟」の包囲網を切るという意味があったのでしょう。またこの説は1627年から1638年までロレンヌ地方は何度もロレンヌ公対ルイ13世の戦場となったことと考え合わせるなら納得がいくはずです。

2枚の「ガッシェ医師の肖像画」 1890年 ゴッホ

2枚の肖像画

ゴッホが自殺した年1890年の6月に描いた、2枚の「ドクター・ガッシェ」を見てみましょう。俗に第一バージョンと呼ばれる完成度の高い方は、現在、ロンドンのオークション会社サザンピースが所有しています。青い上着に白い帽子をかぶり、肘をついて、メランコリーかつうつろな表情で観客の方を見つめています。また左手にはジギタリスという花を持ち、テーブル上には黄色い2冊の本が置いてあります。このジギタリスと本については、もう少し後で解説しましょう。
個人蔵 ガッシェ医師


もう一枚の、オルセーが所蔵している作品は、第二バージョンといって、長い間、ゴッホがガッシェ医師にプレゼントしたものであると看做されてきましたが、私は日曜画家でもあったガッシェ医師自身による贋作だと考えています。
第一バージョンは、ゴッホの死後、テオの所有となり、1897年にテオの妻 ヨハンナが画商アンブルワ・ボラーに他の5枚の作品と一緒にたった1500フランで売りました。
オルセーバージョン


その後1937年には、ドイツによって「退廃芸術作品」として没収された後、第二次世界大戦中のドイツの国家元帥で、美術作品の略奪者として名高いヘルマン・ゲーリングによって、アムステルダムのコレクター、シーフリッツトゥ・クラマルスキーに売り飛ばされました。

クラマルスキーは、それをニューヨークン運び込み、メトロポリタン美術館に預けられて展示されていました。しかし、所有者は1990年5月15日、ニューヨークのオークションでセリにかけ、その結果当時大昭和製紙名誉会長の齊藤了英(サイトー、リョウエイ氏)が史上最高額の8250万ドルという巨額の額で競り落とし、それ以来行方不明になっていました。一時は齊藤氏の死後、彼の棺おけと一緒に焼かれたのではとの噂も流れ、金にものを言わせて巨匠の名作を独り占めにする悪い日本人の典型例として、世界中の美術ファンから非難をあびた事件です。幸いその後、作品は世界的に有名なオークション会社サザピーズが保有していることが明らかになりました。

しかも、この絵のスキャンダルはこれだけではありません。以前よりドクター・ガッシェが長い間所有していた作品で、現在オルセー美術館が所蔵するものは偽物ではないかという議論あります。しかし、肝心のオルセー美術館が恐れて徹底的な科学分析を行なうことをためらっているのと、もう一つの本物と思われるものが日本で一時行方不明になったことと、その後サザンピースの手にわたってしまったために化学的な鑑定が不可能となり、、100パーセントの確信を持って現時点では断定できません。

しかし、第二バージョンのオルセー美術館の物が偽物ではないかと疑うのには、私は四つの理由をあげます。 


1.まずゴッホが6月4日にテオに送った手紙にこの肖像画のことが書かれています。「彼の肖像画を描いている。頭に白と、とても明るいブロンドの帽子をかぶって、手の肌色も明るくて、燕尾服はブルー、バックはコバルトブルー。紫の花の咲いたジギタリスと黄色の本のある赤い机にひじをついている。(中略)ガッシェ氏はこの絵がとっても気に入って、彼のためにもう一枚描いてくれといっている。もし、描くならば、絶対にこんな風にしたい。それが私のしたいことでもある。」ゴッホのこの絵に関する記載はこれだけです。この手紙を書いた後に、実際にもう一枚の同様の肖像画を制作したのかどうかに関する書簡がないために、今なお、さまざまな憶測が飛び交っている次第です。でも、この手紙の内容にぴったり一致するのはどちらの作品でしょうか。.燕尾服のブルーとバックのコバルトブルー、それに帽子の白とブロンド色までは両方に一致していますが、手の明るい肌色というと第一バージョンがより記載に合致していますし、黄色の本という点でも第一バージョンには黄色い本が描かれていますが、オルセーの物ではなぜか省略されてしまいました。

二番目の理由は、両者の筆のタッチが大きく異なる点です。本物のと思われる第一バージョンでは、ゴッホは、同じブルーを三段階に分けて使っています。まずドクターの服にはほとんどテューブからしぼりだしたままの濃いウルトラマリンを渦巻き状のタッチで描き、そして、背景は肩の周囲に少し白を混ぜた同じブルーを用いて左上に上がるタッチをつけ、一番上では、さらに白を混ぜて明るくしたブルーでを用いました。しかも、その背景には、筆のタッチによって白っぽい線が波のように平行方向にうねっています。
反対に、オルセー美術館の作品、つまり長年ドクター・ガッシェが所有していたとされる物は、ドクターの服とバックの筆のタッチが非常にあいまいで、オーヴェール期特有の即物的なふと筆による力強い波が全く感じられないことです。あくまでも実技の経験に基づいで推測しますと、オルセーの作品は、真作である第一バージョンの白黒写真を使って模写されたものでしょう。

三つ目の理由は、多くの美術史家が見落としている点です。ゴッホは優れた肖像画家でした。たとえ画面の大部分をふと筆で即物的に描いていても、モデルの内面を表現するのに欠かせない目だけは細筆を使って繊細に仕上げました。ゴッホの肖像画の目の特徴は、かって17世紀の巨匠リューベンスがそうであったように、瞳に輝く光の点をかきくわえる点です。ただし すべての肖像画には当てはまらないということもはっきり申し上げておきます。それでもオーヴェール時代のワシントン・ナショナル・ギャラリーの「麦畑の前の若い女性」や、ボストンの美術館が所蔵する有名な「ジョゼフ・ルーランの肖像画」においても、瞳には光る白い点が加えられています。

さらにオルセーが所蔵するサン・レミ時代の自画像を見てみましょう。目に注目してください。渦巻くブルーを背景にして、眼の中に光る点がデリケートにつけ加えられています。 これは、ゴッホの肖像画を語る際に忘れられがちな重要な点なのです。それでは もう一度ドクター・ガッシェの二枚の肖像画を比べてみましょう。どちらの絵に瞳の光る点が2ありますか。第一バージョンには瞳に光る点があって、ややもの悲しげな表情を見事に表現しています。その反対にオルセーの肖像画の目は死んでいます。
目の考察1
目の考察2


4、ガッシェ医師の持つジギタリスという花は紫でなければなりません。その色は前述のゴッホ自身の書簡にも明記されてあります。しかし、第一バージョンでは、紫ではなくて、絵具が色あせて薄いブルーになっています。反対にオルセーバージョンでは、ハッキリとライトブルーが塗られています。

実は、当時ゴッホは金がなくて、パリのタンギー爺さんが手作りした安物の絵具をテオ経由で購入していました。当時ゴッホが愛用した紫は、ブルーの顔料に一種のヨードチンキで着色して得られた紫でした。でも着色材のヨードチンキその物に耐光性が欠けるために、制作後かなり早い時期にヨードの色が飛んで、うすいブルーだけが不均等に残ったと想像できます。
反対にオルセーの第二バージョンでは、ライトブルーがほぼ均等に塗られていて、後に変色または退色した可能性が小さいように思われます。つまり、花の紫が退色した第一バージョンこそが真作といえます。

黄色い本

 本物偽物の話はこれくらいにして、日本ではほとんど解説されないことにふれましょう。本物の第一バージョンのテーブル上にある黄色い本に注目してください。この二冊の本は、19世紀のフランスの代表的作家の一人、エドモンド・ドウ・ゴンクールの書いた本で、両方ともゴッホがドクター・ガッシェにプレゼントしたものです。上が1867年発表のManette Salomon で、自分のモデルであり愛人でもあるサロモンのために画家としての才能を次第に損なっていく画家の姿を書いています。下の本は1865年に発表されたGerminie Lacerteuxという本です。ジェルミニという過去に男にもてあそばれた経験のある女性が、何度も失恋を重ねながら酒におぼれ年老いて行く悲しいおはなしです。どちらの小説も、不思議なくらいに失恋を重ね続けたゴッホの人生に共通しています。

しかも、ドクターが黄色い本のよこでひじをついているポーズは偶然に生じたものではなかったのです。ゴッホ研究者の間では、オーベール期のゴッホが当時のフランス象徴派の巨匠ピュビ・ド・シャバンヌに傾倒していたことはよく知られています。そして、ゴッホの617番目の手紙の中にこんな記載がありました。「私にとって、理想的な肖像画はピュビの男性の肖像画だ。老人が黄色い表紙の小説を読んでいて、その横に一本のばらとコップの中にさした筆がある」 このゴッホが理想とした象徴派画家ピュビの肖像画のイメージと、ドクター・ガッシェの肖像画のイメージが極めて近いのです。写真はシャヴァンヌの作品の一つです。言い換えれば、ゴッホは尊敬するピュビド・シャバンヌの肖像画のイメージを念頭においたうえで、ドクター・ガッシェの絵を描いたのです。また作家ゴンクールの小説を、失恋を繰り替した自分の人生のアレゴリーとして画面中のテーブルの上に描きくわえたのでしょう。
シャバンヌ

花ジギタリス

またガッシェ医師が手にする花ジギタリスにも意味があります。学名DIGITALISは鈴状の,紫の花です。この花には「ジギトキシン」という毒を含んでいて、上手に使えば心臓の収縮力を強める効果があるそうです。そのために、ヨーロッパでは古くから薬草として知られていました。

モデルになったガッシェ医師がそのことを知らなかったはずはなく、この絵におけるジギタリスは、ガッシェ医師が医師であることを暗示するアレゴリーとして用いられていたはずです。

「七面鳥」  モネ 1876年


七面鳥 モネ
1876年、モネが35歳のときから、モネの経済状況が急速に悪化していきました。絵はそれでも安い値段ながら売れていたのですが、アルジョントウーユ大きな家を庭師や家政婦付で借りて、しかもパリにもアトリエを借りるなど、モネの浪費癖は大変なものでした。次第に、借金がかさんで、稼いだ金の大半は借金の返済に消えていきました。

そんな時に知り合った実業家のコレクショナーがオシュデでした。オシュデ家はパリの大きな布地の店を経営していて、妻のアリスはパリの南約20キロのところにあるモンジェロンにロッテンブルグという名の大きな城を所有していました。そのオシュデから、1876年に、モネに城の大きなサロンを飾るための絵を制作するよう依頼がまいこみました。恐らく注文者のオシュデは、城の庭の様子を季節ごとに描くように依頼したのでしょう。

モネは、城の庭の中にあった離れをアトリエとして使えることになり、夏から12月までそこに滞在しました。まず夏の間は、「七面鳥」「モンジュロン、庭の片隅で」「モンジュロンの池」、さらに秋には「狩猟」を制作しました。

「七面鳥」では、城の広大な庭で放し飼いにされた七面鳥たちと、その後ろにはロッテンブルグ城が見えます。「モンジュロンの池」では、夕日を反射して輝く池の水面に、睡蓮らしきものが見えます。でも、もう花が見えないことから秋の光景ではないでしょうか。後のジベルニーの睡蓮池を彷彿させます。もしかすると、ジベルニーの睡蓮池のアイデアは、ここで生まれたのかもしれません

クロード・モネ「サン・ラザール駅」 1877年 オルセー美術館

サンラザール駅

アリスがモネの隠し子を列車の中で生んだ年の1月に、モネはサンラザール駅の近所のモンせー通りの1階に、友人の画家カイユボットの名でアトリエを借りて、有名なサン・ラザール駅の絵を7枚制作しました。

サン・ラザール駅は1841年から43年にかけて建築家アルフレッド・アルモンの設計で建てられ、10年後には巨大なガラス張りの屋根が取り付けられました。駅はプロシア戦争後の第3共和制下でも、パリの北の郊外に行く列車や、モネの実家があったノルマンディー行きの駅として繁栄を続け、かってはフランスで最も乗客数の多い駅でした。、サン・ラザール駅は、いわばフランスの経済成長のシンボルだったのです。

モネは、駅構内で絵を描くために、2度申請書を西部鉄道会社に出し、2度目に条件付きで許可が下りました。
当時、このような大きな駅は、国防上の要所であって、勝手に駅の様子を写生することは許されなかったのです。モネは、事前にデッサンを提出すること、また現場で作品全体を仕上げることは禁止といった条件をのまざるを得ませんでした。

モネはパリの西の郊外のオートゥーユ行きの線路上にイーゼルを置いて描きはじめました。真っ黒な蒸気機関車は、紺色や赤茶で表現され、灰色の煙はブルーとなって構内に漂い、真っ白な蒸気は空のブルーに溶け込んでいます。そして機関車と構内全体が、反対側のヨーロッパ広場方向にぽっかり空いた巨大な空間と、ガラス張りの屋根から差し込む陽光に照らされています。このガラス張りの巨大な屋根は、今でもヨーロッパ広場横の、線路をまたぐ橋の上から眺めることができます。当時、構内にはまだ現代のようなコンクリート製のプラットフォームはありませんでした。乗客は線路の砂利の上を歩きながら乗り降りしていたのです。

ところで、この絵を眺めると、なんとなく画面が薄紫に輝いているように感じられます。それは画面下に描かれた砂利の赤茶色と、背景の空の薄いブルーが見るものの眼の中で交じり合って紫色を創りだしているためです。
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